第3章 カトリック学校における性教育の可能性

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 ここ数年,自己決定権なる言葉をよく耳にするようになり,性教育の世界でも「性の自己決定権」なる言葉が目につくようになってきた(1)。確かにこれまでの性教育は生徒に自己決定ができるだけの材料を提供してこなかった。だから,性に関する科学的に正しい情報を生徒たちに伝えればよいのか。性的に不安定な思春期に,いくら良い性情報を提供しても,彼女(彼)たちが,性に関して正しい自己決定能力を持つことができるのだろうか。一般にこのような能力を体得するためには学習(この場合,広い意味での性体験)を積むことが必要と思われるが,それはあまりにも無責任な教育とはならないか。加えて,自己決定権の確立を訴える立場は,自己決定権という言葉を英国自由主義の思想的コンテキストで用いていることも忘れてはならない(2)。この立場の自己決定権は,自己決定能力の低さを理由に制約を加えることはできない。

 女子を「ブルセラ」「デートクラブ」「援助交際」等の現象の中においてしまったことからも明らかなように,大人の男性もまた,正しい性の選択ができなかった。30代の男性の4割が何らかの買春をしたことがあるという。外国にまで売春ツアーに出かける。日本は売春国なのである。

 しかし,これは当然の結果といえよう。子供の頃,彼らはまったくといってよいほど性教育を受けていない。女子が暗い部屋で月経や出産のスライドを見せられているとき,少年たちは校庭で野球をしていた。しかし,彼らの性に対する関心は高かった。彼らは知識をメディアに求めた。1964年に創刊された『平凡パンチ』(平凡出版<現マガジンハウス>,1988年10月廃刊)の創刊号は55万部も売れた。1年後には100万部を越えたという。1966年には『週刊プレイボーイ』(集英社)が創刊され,競ってヌードグラビアを掲載し,ファッション・自動車・セックスというテーマを中心に時代をリードする雑誌として激しいライバル争いを展開した。100万部という数字がいかにすごいかは,1998年の週刊『新潮』『朝日』『文春』の売り上げが,各々35万〜70万部であることからも察せられる。ちなみに現在の『週刊プレイボーイ』は50万部前後であるが,内容はスポーツや政治といった硬派なものにシフトしている。セックス情報はいまやアダルト・ビデオの受け持つところとなったのか (3)

 こんな中で思春期を過ごした男性たちはまさに危ないのである。性の問題でいま最も危機に立たされているのはこうした男性たちなのかもしれない。このような状況は,性教育の貧困さによってつくり出されたといってもよい。

 少し斜めに現状分析をしてみたが,本論に戻る。

 

 学習指導要領の先にあるもの

 福音に基づいた総合的な価値観・世界観を伝えていくことを使命とするカトリック学校においては,そこで行われる性教育が,カトリックの性に対する考え方の上に立ったものでなければならないことは言うまでもないことである。しかし,第1章でも述べたように,カトリック学校はまた公の規定する学校であるから,例えば,学習指導要領等を完全に無視するわけにはいかない。

 このような書き方をすると文部省学習指導要領があっては福音的価値観を伝えられないかのように思われるが,実際はそうではない。次の学習指導要領(4)をベースに据えても,カトリック的な性教育は可能であり,自然な形のアプローチとなり得る。

 例えば,中学校の保健体育科では,「思春期には,内分泌の働きによって生殖にかかわる機能が成熟すること。また,こうした変化に対応した適切な行動が必要となること」(5)を教えることになっている。ここでは,「妊娠や出産が可能となるような成熟が始まるという観点から,受精・妊娠までを取り扱うものとし,妊娠の経過は取り扱わないものとする。また,生殖にかかわる機能の成熟に伴い,性衝動が生じたり,異性への関心が高まることなどから,異性の尊重,情報への適切な対処や行動の選択が必要となることについて取り扱うものとする」(6)となっており,高等学校の保健科でも「思春期と健康,結婚生活と健康及び加齢と健康を取り扱うものとする。また,生殖に関する機能については,必要に応じ関連付けて扱う程度とする。さらに,異性を尊重する態度や性に関する情報等への対処,適切な意志決定や行動選択の必要性についても扱うよう配慮するものとする。」(傍点筆者)(7)とある。

 異性の尊重の意義を説明するのに,第2章で引用した『カトリック教会のカテキズム』[369]〜[372]で語られている男女観は,非常によい手引きとなる。また,受精や妊娠の仕組みを指導する際,その意義について,カテキズムの[2366][2367]が深く教える。高校生には,避妊の問題を提起し,[2368]によって深め,中絶の問題では,心身への悪影響を教えるだけでなく,[2270][2271]を用いて,生徒に大罪への道を進むことを避けさせねばならない。

このように,保健科は主に身体的側面からの導入によって,カトリック的性教育へと展開してゆく。

 また,中学校の技術・家庭科には,家族と家庭生活という単元があり,「自分の成長と家族や家庭生活とのかかわりについて考えさせる」(8)とある。高等学校家庭科家庭総合では,これをさらに深め,「人の一生と家族・家庭」という単元では,「人の一生を生涯発達の視点でとらえ,家族・家庭の意義,家族・家庭と社会とのかかわりについて理解させ,男女が相互に協力して,家族の一員としての役割を果たし家庭を築くことの重要性について認識させるとともに,各自の生活設計を考えさせる」「生涯発達の視点で各ライフステージの特徴と課題について理解させ,青年期の課題である自立や男女の平等と相互の協力などについて認識させる」「家庭の機能と家族関係,家族・家庭と法律,家庭生活と福祉などについて理解させ,家族・家庭の意義,家族・家庭と社会とのかかわり,男女が協力して家庭を築くことの重要性について認識させる」「親の役割と子どもの人間形成及び親の保育責任とその支援について理解させ,子どもを生み育てることの意義について考えさせるとともに,家庭における親の役割の重要性について認識させる」(傍点はいずれも筆者)(9)とある。

 これらの引用は次期指導要領からのものであるため教科書がまだないが,現行課程とそう変わらないので現行の教科書で比較すると,性や家族・結婚のに関する扱いに関しては,家庭科と保健科で内容は重なる部分が多く,関連するカテキズムも[369]〜[372],[2366]〜[2368]と重なってくる。異なるのはアプローチの仕方である。家庭科の方は生活面からのアプローチによって,カトリック学校としての性教育を可能にする。例えば,高校家庭科のある教科書には,章末の課題研究として,「女性の性周期について知り,避妊について考えてみよう。―――女性は自分の基礎体温を測定し,性周期を正確に知ろう。また,避妊の方法について,それぞれの利点・欠点を調べ,必要性についても考えてみよう。優生保護法の内容について調べ,問題点について考えてみよう」というのがある(10)。これまでに見てきたように,こんなときカトリック学校は,生徒が考えるための手掛かりを山ほど持っている。そういった意味でカトリックの性に関する教えは,指導要領を乗り越えた先にあるといえるのではないか。

 他にも,例えば国語科は文学作品を通じ,中学社会科,高校地歴科・公民科は歴史上のできごとや制度や倫理学,殊に女性の人権にかかわる問題を通じ,広い意味でカトリック学校の性教育に関与することができるし,理系科目は自然の不思議さや調和を提示すことによって,神の計画・摂理を垣間見せることができる。

 

 宗教教育の大切さ

 ところで,保健科や家庭科に示すような実践を可能になるのは,言うまでもなく,道徳に代わる教科としての宗教科の授業活動を含む学校全体の宗教教育が生きたものとなっているときに限られる。この部分がしっかりしていないと,カトリック学校はすべてにおいて無力である。この上に,各教科が連携してこそ,カトリック学校の性教育は第一歩を踏み出せる。

 このような,総合的・全体的な性教育がいま求められている。

 昨今の性器や避妊の身体的・技術的説明に多すぎる時間を費やすようなやり方は側面性が強く出て,性を人格から切り離す方向へ進んでいく。性的人権の尊重を訴える科学的・急進的方法の責任不在は前述した。宗教性を排除した,絶対的な価値観を伴わない,いってみれば損得勘定的な純潔教育は暗い部屋の中で敗北に終わっている。今こそ,人間を越えた絶対者に起源をおいた価値観に基づく性教育が必要である。性は神から与えられたものであるから,明るく肯定的なものとして教育されなければいけない。それは宗教をもつカトリック学校には可能なことであり,また,やらなければならないことである。再び引用するが「カトリック学校は,他のすべての学校にまさって,生きることの意義を伝えることを第一とする共同体でなければならない」(11)。性は人間を生と聖へと導く。(12)

 

 貞潔教育=人格教育

 カトリック学校の性教育は貞潔教育をおいて他にはない。第2章で見たように,貞潔は神への信頼と神からの信頼を表出したものである。カトリック学校が貞潔教育を放棄してしまったら,それは,神との関係を自ら断ってしまうことになるのである。だから,カトリック学校の性教育はアプローチの仕方はいろいろあっても,貞潔教育へと収斂してゆくものでなければならない。

 そして,教会は,貞潔は人格を完成させるものであると説いている(13)のであるから,貞潔教育はまた人格教育でもある。つまり,貞潔教育とは,いかにして己を支配し,人間としての真の自由を獲得するかを学ばせることだが,このことは自己実現という人格形成に他ならない。そういった意味で貞潔教育は性教育に留まらない,カトリック学校としての根幹教育なのである。

 

 回復教育―――イエスのまなざし 

 しかし,もうすでに性交経験をもつ者にはどう対したらよいのか。各種の調査を見るまでもなくそうした生徒が多いことは歴然とした事実である(14)。この子たちの存在を無視して,「貞潔」など,ただ,カトリック的なきれいな文言を並べればよいのか。もちろん否である。それでは,彼女(彼)たちに,キリストのメッセージは何も伝わらないし,逆に,自らを断罪し苦しみを引きずる人生を送る者をも生み出してしまう。これはカトリック学校のすることではない。

 聖書はどう教えているか。復活したイエスは,多くの罪をおかしたといわれていたマグダラのマリアの前に現れている(15)。姦通の罪を見つかった女のことを,ただ一人,群衆の前で弁護している(16)。娼婦も自分の中に迎え入れている(17)。こうした場面は,福音書にいくつも見られる。そして,キリストに受け容れられた彼女たちは,新しい人になってゆく。このような「新しい人」を育てることがカトリック学校の使命であることは,第1章で確認した。また,貞潔は罪に汚れた段階を経ることから始まるというカテキズム[2343]の重要性を第2章で指摘した。

 姦通の女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは,もう罪を犯してはならない」(18)と告げたときのイエスのまなざし。このまなざしをカトリック学校の性教育は忘れてはならない。このまなざしのもとにこそ,カトリック学校の貞潔教育は実のあるものとなる。このまなざしのもとにカトリック学校は全教科あげて勇気を持って貞潔教育をすることが可能になる。

 性と人間性を本来の姿に回復させること。それが,貞潔である。
(大矢正則)

第3章の註