聖書に親しもう(第3話)
個性の尊重

 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (コリント人への第一の手紙12.14〜26)

 21世紀は多様化の時代になり,個性が尊重されるだろうなどといわれます。結構なことなのですが,私たち人間は意外にこの個性の尊重が苦手なようです。ついつい自分と同じような個を個として認め,少しずれるともう認めずに,「はずす」傾向があるようです。特に,私が関わっている若い世代,中高生にその傾向が強いようで,心苦しくなることがあります。中高生たちを見ていると,まるではずされないようにするためにあくせくしているようです。みんなと違ってはいけないから,茶髪にし,化粧をし,大声で乱暴な言葉で話し,家にいても,風呂に入るとか寝るということまでメールでで誰かに伝え・・・。このことが良いとか悪いとかいう問題ではなくて,とても気の毒です。みんながみんなというわけではないのですが,こうしなければいられないような人との関わり方しかできなくなっている子どもたちが急増しています。次から次へといろんなブームがやってきて,それに乗り遅れることは,この子たちにとっては,友達関係の喪失を意味します。しかもその友達関係は希薄です。

 子どもたちはそんな空しい人間関係の中で生きてます。そして,子どもたちはその希薄さ空しさに気づいていないのではないのです。そんな細いものでもいいから他人とのつながりを求めています。

 人とつながっていたい。人から愛されたい。人を愛したい。これは人間のもっとも人間的な欲求,人間らしさです。

 聖書には,主に神の愛について書いてあるのですが,上の箇所では,社会を一つの体にたとえて,人間同士がどうお互いをとらえていくべきかを教えています。

 人は一人一人違うから,意味があります。もし同じだったら存在しないでしょうし,つき合う意味もないでしょう。自分と同じ人と関わり合ったところで,何も変わりません。一人でいても同じです。考え方や働き・役割が違う者同士が互いに尊重し合ってこそ,すばらしい本当の人間関係が成立します。上の聖書のたとえでいえば,多くの部分からなる一つの体ができあがります。

 そして,さらに重要なことは,「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」という教えです。

 人間は時代が進むにつれて弱者を排除してきました。個性が尊重される多様化の時代ならば,なおさら弱者は大切にされなければなりません。

(第3話おわり)

聖書の引用は日本聖書協会『聖書 新共同訳』によりました。

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