第1部 なぜ構成的グループエンカウンターか
大矢正則

 

 構成的グループエンカウンター(Structured Group Encounter:SGE)とは,@リーダーによるインストラクション A参加者の思考・感情・行動に揺さぶりをかけるための演習であるエクササイズ B参加者の思考・感情・行動を修正・拡大するためのふりかえりであるシェアリング,以上の3部からなるグループの教育力を利用した体験学習的サイコエデュケーション,もしくは集団対象の能動的カウンセリングである(1)。創始者である國分康孝によって「ありたいようなあり方を模索する能率的な方法として,エクササイズという誘発剤とグループの教育機能を活用したサイコエデュケーションである」と要約されている (2) 。「エンカウンター」の日本語訳は「出会い」であるが,構成的グループエンカウンターにおいて「出会い」とは,通常より深いレベルでの「自己との出会い」と「他者との出会い」を意味する。

その構成的グループエンカウンターが流行っている。グループエンカウンターには,ロジャーズ流に代表されるような非構成的なもの(Basic Encounter Group(3))と,後発の構成的なものがあるが,今日,学校教育関係でエンカウンターといったら,構成的グループエンカウンターである場合が多くなってきた。そこでこの小論でも,以下,単にエンカウンターといったら構成的グループエンカウンターを指すことにし,それ以外のエンカウンターを指す場合には断ってから書くことにする。

時代の要請―――エンカウンター
 さて,いまエンカウンターが流行っている(4)のはなぜか。教師が現場での実践に手応えを感じ,一度実践した者が繰り返し実践し,また,それを知った周囲の教師が,自分もやってみようと実践するからである。では,なぜ現場の教師が手応えを感じるのか。生徒・児童(筆者は中高教師であるので,以下,生徒と書く)の求めに,エンカウンターは応えているからであると考えられる。しかしここで生徒の求めているものが教育的に価値の低いものであるならば,現場で繰り返し実践する価値はないし,やがて廃れていくだろう。

生徒が求めているものは何か。その答は,エンカウンターが,人間関係をつくることと,人間関係を通して自己を発見することや他者を理解すること(5)をねらいとして実施されていることを考えればわかる。随所で人間関係の希薄化が指摘されているが(6),いま目の前の生徒がまさに求めているものは,この人間関係の形成――心のふれあいなのだ。そして,自分とは何者かを知りたい。相手のことも理解したい。生徒の求めはこれである。

しかし,社会の教育力が低下し(7),また,便利で安価に物を手に入れやすくなった今日,子どもたちは,ある意味において,一人で生きやすくなった。彼等・彼女等は,怒られる体験も,迷い悩む体験も,かつての子供たちのようには体験しないまま,思春期まで育ってくる。対話しながら人間関係を形成し,その中で,自他の違いを知り,そのことによって自己を発見したり,他者を理解したりするという機会が著しく減っているのである。夕方,神社の境内から小学生の遊ぶ声がしなくなって,もう20年になるだろうか。

だから,今日エンカウンターをすると盛り上がる。たとえば,かつての校庭の定番『凍結鬼ごっこ』 (『助け鬼』『氷』『ドロ警』はほぼ同じ遊び)などもエンカウンターのエクササイズ集に登場している(8)。かといって,学校が神社の境内や公園の役割を引き受けるようになったのではない。学校は本来グループ活動の場なのだ。学校には多様な生徒がいる。しかも成長するのに必要な一定の年数在籍する。だから,グループ活動に意味が出てきて教育的な実践が可能になる。多様な成員からなるグループには個々人の成長を促す教育力がある。学校に与えられたこの特有の教育力を活用しない手はない。今後,生徒の真の求めに応じたもっとよいグループ・アプローチが登場してこない限り,エンカウンターは,発展することはあっても,廃れることはない。

こうした,エンカウンター隆盛を,諸富祥彦,國分康孝の両氏はこう語る。

 かつての貧しい時代,さまざまな“壁”が横たわっていた時代であれば否応なく感じることのできた,ゴツゴツした抵抗感を今の子どもたちの多くは感じない。ぶつかることのできる“壁”があれば,子どもが自分の存在を実感するのはそうむずかしいとではない。壁のない,豊かな時代であればこそ,子どもたちは,自分という存在の輪郭を明確に描くことは困難になってきているのだ。構成的グループエンカウンターは,こんな時代を生きる子どもたちに,自分という存在の輪郭をハッキリ感じ取ることのできる機会を豊富に与えていく。「これが自分だ」「自分はこんな人生を生きたい」「私は,こんな自分になりたい」―――こんな意識を喚起して,子どもが自分という存在の輪郭をくっきり描く,そのお手伝いをしていくユニークな教育方法である。存在感の希薄なこの時代のニーズにまさにこたえうる教育方法である。(9)
 今の時代は人口移動が激しく,テクノロジーが発達し,少子化傾向が進み,遊び仲間が少なくなったために,人間関係のナマの体験が持ちにくい。その結果,人間関係をつくりこれを維持するのが苦手となり,引きこもりがちになる。したがって慢性の孤立感から脱却できない苦しみのほかに,自分は一体何者であるか分からないむなしさ・虚無感に取りつかれる人がふえてくるだろうと予測できる。こういう時代を生き抜くためには,人間関係をナマで体験し(心のふれあい),それを通して自分をとり戻す(自己発見)必要がある。SGEはこういう時代の要請に応えようとするものである。人間性回復運動の旗手がSGEである。それゆえ,今のような時代が続く限りSGEは続くであろうと私は思っている。(10) 

 枠――構成が与える自由
  また,エンカウンターは,構成的であるがゆえに,生徒の求めに,より自由に応えることができる。

他のグループ活動の体験はあるがエンカウンターの体験はない者が,エンカウンターのマニュアル本を見ると,グループの構成の仕方や時間設定のうるささに,不自由な印象を受ける場合が多い。曰く「これでは,生徒がイヤになってしまい,言いたいことも言えない」。曰く「話す時間が短すぎて,深まらず,人間関係づくりに役立たない」などである。しかし,一度エンカウンターを体験すると,(もちろん例外はあるが)そう言わなくなる。なぜか。それはこういう原理による。

“構成的”とは枠を与えるということであり,枠の種類は@ ルール A グループの人数 Bグループの構成(“見知らぬ人同士”とか“同じ進路志望の人同士”とか指定する) C 時間の制限 などである(11)。

枠は何を意図して仕組まれるかというと,まずは,心的外傷の予防を考えて仕組まれる。たとえば,やや深いレベルの自己開示が必要なエクササイズを,あまり親しくない者同士で行わせることはしない。また,自分が一番大切なものについて考えさせる「火事になったら」というエクササイズがあるが(12),このエクササイズは,メンバーの中に火事で家を焼失してから日の浅い者がいるグループでは実施しない。

また,枠は,メンバーひとり一人が自己表現をしやすい環境設定のために仕組まれる。たとえば,「自分の将来について自由に話し合って下さい。話が終わりそうなころにこちらで合図します。話し終わらない場合は,また今度続きをします」と指示するよりは,あらかじめ用意したワークシートを配布し,記入する時間をとった後,リーダーが事前に決めておいた構成・人数のグループにし,「それでは自分はどの学部に行きたいか。そのためには何が必要か。一人3分ずつで発表して下さい。3分ごとに合図をしますから,次々と発表して下さい。なお,あとで自由に話し合う時間もとりますから,聞いている方は質問をせず,まずは聞くだけにして下さい」と指示した方が,ひとり一人の自己表現がしやすくなる。テーマと時間の枠が抵抗を少なくし,自由な言動を促進するのだ。意図的に仕組まれた枠が実はメンバーに安心感と自由を与える。したがって,時間も効率的に使える。

この効率の重視もまたエンカウンターの特徴である。エンカウンターは,人の時間を奪ってはならないという現実原則に従っている(13)。たとえば,同じエクササイズに対する所要時間も,GWT(グループワークトレーニング)やNC(ニューカウンセリング)に較べて非常に短い(14)。

 このように,構成的であるがゆえに,生徒の求めに,より自由に,効率的に,その結果として,より多く応えることができたことが,エンカウンターが現場に根付いた大きな理由だろう。

 折衷主義
 さらに,エンカウンターが急速に広まった要因として,比較的容易に実践できる点があげられる。それは単にマニュアル本が多く出版されているからではない。エンカウンターが,いわゆる折衷主義(eclecticism)の立場をとっているから,誰でも比較的容易に実践できると考えられる。

 エンカウンターのとる折衷主義とは,理論に実践を合わせるのではなく,さまざまな理論の中から個々の現場にフィットする部分を取り出し,利用する立場であるが(15),エンカウンターの折衷主義を語る上では,エンカウンターの歴史およびカウンセリングとの関係について概観しておく必要がある。

 エンカウンター(ここではまだ“構成的”ではない)の起源は,1949年にアメリカのNational Training Laboratories(NTL)が行ったTグループであるとされている(16)。その意味では,エンカウンターは初めからグループで実施されている(17)。その後,来談者中心療法のカール・ロジャーズ(C.Rogers,1902〜1987),ゲシュタルト療法のフリッツ・パールズ(F.Perls,1893〜1970),交流分析のエリック・バーン(E.Berne,1910〜1970)らが,個別カウンセリングの理論を応用した形でグループカウンセリングを行うようになるが,1960年代に全盛を迎えるこれらのグループ・アプローチもまた,エンカウンター・ムーブメントと称されるようになり(18),今日のさまざまなグループ・アプローチの源流となっている。

その中,構成的グループエンカウンターは,Tグループとは起源の異なるアメリカ西海岸のグループ,すなわちロジャーズらのカウンセリング・ワークショップ(これ自体は非構成的グループ)やカリフォルニアのエスリン研究所(Esalen Institute)の流れを汲んでおり,特にエスリン研究所におけるパールズのゲシュタルト療法ワークショップが,直接の影響を及ぼしている。エスリン研究所で学んだ國分康孝は,1970年代後半から,菅沼憲治らとともに,エンカウンターに関する研究と実践報告を,日本相談学会の学会誌に次々と発表していった。それがもととなり専門家の間で,特に大学生を対象とした実践が静かに広がっていった(19)。それから20余年経た今日,時代の要請から,小中高等学校において一大ブームを引き起こしている。

 エンカウンターがこのようにカウンセリングの応用として発展してきた以上,カウンセリングにおける折衷主義がエンカウンターの折衷主義に大きく影響を与えている。

 國分はカウンセリングを「言語的および非言語的コミュニケーションを通して,相手の行動の変容を援助する人間関係である」と定義した上で(20),カウンセリング理論を,@ 精神分析的理論 A 自己理論 B 行動療法的理論 C 特性・因子理論 D 実存主義的理論 E ゲシュタルト療法 F 交流分析 G 論理療法 H 折衷理論 I その他 の10グループ(ただし,HおよびIは他と分類の性格が異なるので8グループといった方がよいかもしれない)に分類している(21)。なお,カウンセリング理論とは,a.人間観 b.性格論 c.問題行動論(問題行動発生のメカニズム) d.目標論(治るとは何か) e.カウンセラーの役割 f.クライエントの役割 g.限界(その理論の適用範囲を示すもの)の総称であり(22),@〜Gのどのカウンセリング理論もそれぞれが,a〜gのすべてに対する答を一通り用意している。したがって,どれか一つのカウンセリング理論を根拠にしてカウンセリングを実施することは可能であるし,それが普通であった時代もある。しかし,國分は言う。「カウンセラーはクライエントを助けるのに役立つ限り,そして自分の気質に合う限り,できるだけ多様な理論にふれてそれを自分なりに統合しなければならない」 (23)。折衷主義の立場を推しすすめているのである。

 だから,エンカウンターも折衷主義の立場をとる。なぜなら,エンカウンターはカウンセリングの一種だからである。ただし,カウンセリングといっても,従来型のように治すことを目的としているのではない。エンカウンターはごく普通の教育現場―――たとえば,学級開き,ホームルーム,合宿,教員研修,保護者会など―――で行う開発的・教育的カウンセリング(Developmental Counseling)である(24)。学校は治療機関ではなく,教育する場である。

では,実際のエンカウンターの折衷性とはどんなものか。

エンカウンターはその出発点において,ゲシュタルト療法ワークショップに負うところが大であるから,エクササイズ(この用語自体ゲシュタルト療法用語である)にはゲシュタルト療法の発想――「今−ここ」における気づきの惹起を根拠とする(25)――が表れているものが多い(26)。

しかし,傾聴志向のエクササイズや自他受容・肯定感をねらいとするエクササイズもあり,これらはロジャーズ流の自己理論に支えられている(27)。

かといってそればかりでは開発的(あるいは教育的な視点からの予防的な)カウンセリングにはならない。だから,シェアリングでの発言に対して,ときには精神分析理論をもとに解釈したり助言したりもする。

論理療法については,メンバーあるいはリーダー自身の種々のイラショナル・ビリーフ(irrational belief)を修正するに際し役立つし,この理論を背景とするエクササイズもある(28)。

交流分析の「時間の構造化」(29)は合宿でのエンカウンターのスケジュールを立てる際有効となるし,エゴグラムを用いたエクササイズもある(30)。

心理テストに代表される特性・因子理論を背景にしたエクササイズは,数は多くないが実践されている(31)。

行動療法理論はエンカウンターの環境づくりに役立つ(32)。

そして,実存主義はエンカウンターを支える人間観である。エンカウンターはグループ・アプローチの形態をとっているが,その根底にある人間観は,ひとり一人が自分の人生の主人公であるという実存思想である。すなわち,「自分は自分である。私は,ほかの誰とも交換不可能な,かけがえのない「私」であって,だから私の人生は,私が自分で引き受けるしかない。だれも私の代わりに私の人生を生きてくれる人なんていない。だから私の人生は,私自身が責任をもって生きぬいていくしかない」(33)という個の自覚への目覚めをエンカウンターはねらいとしている。だから,エンカウンターが依って立つ人間観は実存主義思想なのである。実存主義そのものが折衷志向でもある。

エンカウンターはこのようにいろいろな理論の折衷主義の立場をとり,それは最近のカウンセリングにおける折衷主義の流れを汲むものであるが,次に,カウンセリングにせよエンカウンターにせよ,なぜ折衷主義をよしとするのか考えてみたい。

まず,カウンセリングにおける折衷主義を支える根拠について,國分は,倫理的理由,社会・文化的理由,各理論の不完全性,哲学的理由,それに,フィードラーの研究をあげている(34)。

倫理的理由とは,自分の流儀を押しつけるのではなく,来談者の立場に立って,求めに応じなければならないということである。カウンセラーが自分の流儀だけに固執するのは不誠実である。だから折衷主義がよいというわけだ。

社会・文化的理由とは,心理的問題というのは社会や文化が変われば変わるものであるので,ある社会や文化では通用した固定した立場が,別の状況では通用しない可能性があるということである。

各理論の不完全性とは,文字通りで,各カウンセリング理論は不完全なものであるから,相互補完的に使うべきであるという考えである。

哲学的理由とは,人間として理論の奴隷になってはならないということ。つまり,人間であるカウンセラーとクライアントの側が理論の支配者でなければならないということである。

 最後のフィードラー(F.E.fiedler1922〜)の研究とは,精神分析理論のフロイト派,個人心理学(Individual Psychology)のアドラー派,来談者中心療法のロジャーズ派のそれぞれに属する熟練した3人のカウンセラーの面接記録を分析したところ,カウンセラーの応答に差がなかったというものである。原典にあたることができなかったので,国分康孝『カウンセリングの理論』から,孫引きすれば「熟練者になるほど,カウンセラーの面接中の言葉には学派による差異が見出されないということである。フロイディアンも受容的な反応をするし,ロジェリアンも解釈的なことばを発する。ところが,未熟なフロイディアンほど解釈が多く,未熟なロジェリアンほど受身的な受容が多いのである。しかも,面接について何がよかったかについての来談者の感想は「先生は私を理解してくれた」「先生は暖かかった」というリレーションの有無を述べている。学派の差異がそこには反映されていない」(35)。この研究調査からいえることは,カウンセリングの成否はリレーションにかかっていること。どの学派に立つかは重要ではないということである。カウンセリングの要であるリレーションづくりという立場から,学派へのこだわりの克服が必要であるといえる。

 次に,エンカウンターはなぜ折衷主義かについてであるが,答はカウンセリングのそれで出ている。

 まず,エンカウンターはメンバー中心でなくてはならない。だから,リーダーの立場の押しつけはできない(倫理的側面)。また,学年・学級によっても,実施する時期によっても援助し開発すべき内容は異なる。ましてや今日の教育現場を取り巻く状況を考えれば,それこそ必要だったら何でも活かさなければ対処できない(社会・文化的側面)。一つの理論でエンカウンターが成功するほど問題は単純ではない(各理論の不完全性)。そして,現場の生徒と教師は,理論に振り回されることなく,生き生きとエンカウンターしなければならない(哲学的側面)。だからエンカウンターも折衷主義に立たざるを得ない。

 では,エンカウンターを行う際リーダーとなる教師は,カウンセリングの各理論をすべて知っていなければならないのか。答はイエスでもあり,ノーでもある。

 折衷主義には,各流儀(理論と技法)を選択するという側面と統合するという側面があるが(36),いずれにしても,なるべく多くの方法を知っているにこしたことはない。しかし,折衷主義への批判にあるように,一つの立場を身につけるのにも非常に多くの時間を要するので,複数の立場を身につけるには気が遠くなるほどの時間が必要である。だが,エンカウンターのリーダーをしようとする教師は,各理論や技法の詳細まで知っている必要はない。時間の許す限りで,各理論のポイントとなる概念や,特にエンカウンターに応用できる技法を身につければよいと考える。また,現場に立つ教師にはそれしかできない。自分の関心のある理論から始めればよい。手っ取り早いのはエンカウンターやカウンセリングの研修会に参加することかもしれない。ただ,エンカウンターの第一歩が,リーダーとしてのメンバーとのリレーションづくりであることと,それ以前の自己一致が大切であることを考えると,ロジャーズの受容・共感的理解に関する基礎的な概念は体得する必要があると考える。これはエンカウンター以前に教師として必要な知識でもある。ロジャーズを学んだことがなくても,教師なら,生徒との会話の中で日常この技法を使っているものと思われるが,そのことを意識しているのとそうでないのでは,応用面で差が出てくる。それに交流分析と論理療法の基礎的な知識が加われば,リーダーとしてぐっと違ってくる。また,これはいわゆるカウンセリング理論ではなく一つの技法体系だが,ロジャーズの弟子であるトマス・ゴードン(T.Gordon)のPET(Parent Effectiveness Training)やTET(Teacher Effectiveness Training)(37)もエンカウンターのリーダーに大変有益である。

 ところで,エンカウンターのリーダーをするためには,カウンセリング理論を身につけていることよりも大切なものがある。それは,リーダーシップである。なぜなら,エンカウンターの成否は,非構成的グループエンカウンターや他のグループ・アプローチに比べて,リーダーの腕に負うところが大だからである。

前述したように構成的グループエンカウンターの“構成的”とは,枠を与えるということだが,この枠こそエンカウンターの生命線である。そして,この枠を正しく与え,状況に応じて介入し,柔軟性を持ちつつも枠を堅持するのがリーダーの仕事である。したがってリーダーには,グループをまとめ,グループを動かし,メンバーひとり一人を育てる強力なリーダーシップが求められる。そのようなリーダーとして望ましい特性として,國分久子は,@ 柔軟性 A 感受性 B 自己開示 C フラストレーション・トレランス(欲求不満耐性) の四つをあげている(38)。また,片野智治は初心者のリーダーに「うまくやろうとするな,わかろうとせよ」といっている(39)。つまり,教師が,教師中心の「うまくやること」から,「わかろうとする」――生徒理解へとシフトすることから,教師とその生徒のエンカウンターが始まるというのである。ここから,教師自身も自己との出会いが始まるということになる。この自らのエンカウンターなくして,リーダーはつとまらない。

 以上,エンカウンターのリーダーに必要な要件――カウンセリングの基礎知識とリーダーシップ――をあげたが,考えてみれば,これらは今日,すべての教師に求められているものではないのか。岡田弘の「エンカウンターは,教員としての資質があればだれにでもできるものである」(40)は,その意味で理解したい。

 エンカウンターの折衷主義の議論から,リーダーの要件の問題へと論点が移ってしまった。國分康孝は折衷主義を「理論に自分を合わせるのではなく,各理論のなかから自分のパーソナリティにフィットする部分をとり出し,それを統合する」 (41)ものともいっている。いずれにしても,この折衷主義がエンカウンターの実践を容易なものとしている。ただしそこには,容易さゆえの落とし穴も指摘されつつある(42)。その主なものは,エクササイズ偏重によって生じている。すなわち,インストラクションとシェアリングの軽視である。これは,エンカウンターのねらいに対する自覚の低さとも言い換えられる。

 以上で,第1部を閉じるが,エンカウンターが時代の要請に応えていること,構成的という本質ゆえに生徒の求めにより多く応じられること,折衷性が実践を比較的容易にしていることを指摘したのである。

   

(1)      國分康孝・大友秀人『授業に生かすカウンセリング』(2001 誠信書房)p.81〜84

(2)      國分康孝「構成的グループ・エンカウンターの意義と課題」(所収 國分康孝編『構成的グループ・エンカウンター』1992 誠信書房)p.13

(3)      Carl Rogers『エンカウンターグループ』畠瀬稔,畠瀬直子訳(1973 ダイヤモンド社)

(4)      たとえば,國分康孝監修『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』(1999 図書文化)p.3に「全国のほとんどの県公立教育センターで演習をともなった「構成的グループエンカウンター」が開かれ」とある。また,学校教育現場向けに書かれたエンカウンター(構成的グループエンカウンターに的を絞ったもののみ)関係の書籍も1995年以前は,わずかに1992年の『構成的グループ・エンカウンター』(前出),縫部義憲編著『人間づくり 第1集〜4集』(1集1986,2集1987 3集・4集1989 瀝々社)のみであったが,1996年2点,1997年1点,(1998年なし),1999年5点,2000年9点,2001年は5月までに既に3点と,ニーズに応える形で続々と出版されている。

(5)      國分久子「なぜいまエンカウンターか」(所収『エンカウンターとは何か』2000 図書文化)p.49

(6)      たとえば,『平成11年度版青少年白書』(2000 総務庁青少年対策本部)では,「青少年行政のあゆみと21世紀への展望」という特集を組んでいるが,その中で,昭和50年代の青少年をめぐる状況として,「核家族化,少子化の進行や都市化の進展に伴う(中略)家庭の孤立化等により,家庭の教育機能が低下する傾向がみられた。(中略)また,都市化の進展に伴う人間関係の希薄化に加え,豊かな消費生活の中で性産業やゲームセンターの増加等享楽的傾向の強まり,(中略)情報化の進展による知識の豊富化や感覚的傾向の増大等,地域の育成環境が変化していった」(p.60)と人間関係の希薄化を都市化にその因を求めている。また,中央教育審議会は1996年6月「審議のまとめ」の骨子として『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について』という文書を公表したが,その中の「情報化と教育」という章の中で,「人間関係の希薄化や自然体験の不足など情報化の「影」の部分を克服しつつ,心身ともに調和のとれた人間の育成,情報モラルの育成に努める」と,情報化との関連で人間関係の希薄化に言及している。さらに,同審議会は2000年12月答申の「新しい時代における教養教育の在り方について」の中でも,「目覚ましい情報化の進展やマスメディアの発達などによって世界中からあらゆる情報を瞬時に入手できるようになる一方で,直接体験が失われ,人間関係の希薄化も進んでいる。科学技術の著しい発展は,人類に計り知れない恩恵をもたらす一方で,地球規模での環境問題やデジタル・デバイドに代表される新たな格差の出現,遺伝子操作技術などその使い方をめぐって大きな倫理的課題をはらむ問題を生み出しており,科学技術の発達の速さに我々の精神世界が置き去りにされる,新たな人間疎外とも言うべき状況も生じている」(第1章「今なぜ「教養」なのか」と現状を分析している。また,深谷昌志氏は『モノグラフ・高校生Vol.59』(2000 ベネッセコーポレーション)の「要約」において,「豊かな情報化社会が到来するだろう。しかし,自然環境が悪化し,人間関係が希薄になる」(p.5)と述べている。

(7)      『平成11年度版青少年白書』では,「青少年行政のあゆみと21世紀への展望」の中で,昭和60年代以降の青少年をめぐる状況として,「少子化の進行に伴い,異年齢の子ども同士の交流機会の減少や,親の過保護あるいは過干渉により,子どもの社会性がはぐくまれにくくなるといった問題など,家庭や地域の教育機能の低下が指摘されている」(p.79)と報告している。

(8)      『人間づくり 第1集』p.57

(9)      諸富祥彦『エンカウンター こんなときこうする 中学校編』(2000 図書文化)p.8

(10)  國分康孝「育てるカウンセリングとしての構成的グループ・エンカウンター」(所収 國分康孝編『続 構成的グループ・エンカウンター』2000 誠信書房)p.12

(11)  「なぜいまエンカウンターか」p.29

(12)  『人間づくり 第1集』p.177

(13)  「なぜいまエンカウンターか」p.36

(14)  吉澤克彦「GWT,NCとの異同」(所収 國分康孝監修『エンカウンターで学級が変わる 中学校編3』1999 図書文化)p.16によれば,エクササイズ『月旅行』にかける時間を,エンカウンターでは50分,GWTでは150〜220分,NCでは3〜5時間としている。

(15)  國分康孝『エンカウンター』(1981 誠信書房)まえがき

(16)  同p.4。

(17)  R.W.Siroka,E.K.Siroka,G.A.Schloss『グループ・エンカウンター入門』伊東博・中野良顕訳(1976 誠信書房)「第二部 Tグループ」に「Tグループでは,8人から10人の人間が一室に集まるものの,正式のリーダーも,会議日程も,教科書もなく,ただ見たところ消極的なトレーナーがひとり加わっているだけである。トレーナーはグループ過程を方向づけたりはせず,参加者個々人およびグループの上にどんな事態が起こりつつあるかということを彼らが自覚していくように援助することを主たる役目としている。Tグループでの学習は,まったく混沌とした状況の中からグループ自らが意味のある構造を創造しようとするあがきを通して,展開されるのである」(p.51)とある。また,3人の参加者(企業人,実業家,精神科医)の報告論文が収められている。特に,精神科医ルイス・ゴットシャルク(Louis A.Gottschalk)による「メイン州ベセルの人間関係ラボラトリのTグループに関する精神分析的覚え書き」は,精神医学者の立場からの臨床的・理論的な論文で,サイコセラピィとの類似性,Tグループの理論の折衷性,トレーナー(Tグループでは,いわゆるファシリテーターのことをトレーナーと呼ぶ)の問題点などを指摘している。(p.90〜115)

(18)  『エンカウンター』p.9

(19)  大学生対象の実践が中心であったこの時期に出版された縫部義憲編著『人間づくり 第1集〜4集』(前出)は,小学生から高校生までの構成的グループエンカウンターの貴重な実践記録集である。構成的グループエンカウンターという言葉が,監修者である國分康孝氏によるまえがきと,編著者である縫部義憲氏のあとがきにしか出てこないことも,この時期の構成的グループエンカウンターの普及具合を表している。また,少し後発になるが,1988年出版の手塚郁恵・刀根良典著『新版学級経営実践マニュアル』(小学館)はフォーカシングや感性開発を重視したエクササイズ集だが,構成的グループエンカウンターの方法も取り入れている。なお,この本で取り上げられているエクササイズ(ゲーム)のほとんどは,伊東博・河津雄介『豊かな心を育てる感性開発ゲーム』(1982 明治図書)から採られている。ロジャーズ研究者の伊東(2000年逝)は,アメリカでエンカウンターを体験し,感性の開発,すなわち,感覚の覚醒→からだが動く→自己の覚醒→対人関係→表出・表現,を柱として,「ニュー・カウンセリング」を提唱した。河津(1997年逝)は,主に教師対象の研修を目的として百芳教育研修講座を主宰し,「内なる子ども(inner nature)のたがやし」といった形で感性教育を開発していった。これらの潮流は今日のホリスティックワークへとも連なっている。故人となった日本のグループ・アプローチおよび感性教育界の巨星2人の編集による『豊かな心を育てる感性開発ゲーム』は,今日では図書館の書庫の片隅で眠っているが,そこで紹介されている69の演習(ゲーム)は,いまなお新鮮さと不思議な輝きを保ったまま,いろいろな流儀のグループ・アプローチのエクササイズとして用いられている。

(20)  國分康孝『カウンセリングの理論』(1980 誠信書房)p.5

(21)  同p.20

(22)  同p.19

(23)  同p.34

(24)  『授業に生かすカウンセリング』p.59

(25)  倉戸ヨシヤ「ゲシュタルト療法」(所収 河合隼雄・水島恵一・村瀬孝雄編集『臨床心理学大系第9巻 心理療法3』1989〜1990 金子書房)p.127

(26)  ゲシュタルト療法の理論・技法を背景としたエクササイズとしては,たとえば,大友秀人「もしも私が○○だったら」(『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』p.178),今井英弥「めざせ!環境博士」(國分康孝監修『エンカウンターで学校が変わる 中学校編』1996 図書文化 p.178),三浦康子「心をひとつに」(國分康孝監修『エンカウンターで学級が変わる ショートエクササイズ集』1999 図書文化 p.74)など。

(27)  ロジャーズ流の自己理論を背景としたエクササイズとしては,たとえば,足立司郎「聞いてもらえる喜び」(『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』p.68),佐藤隆「私をたとえると」(『エンカウンターで学級が変わる 中学校編3』p.70),林伸一「肩もみエンカウンター」(『エンカウンターで学級が変わる ショートエクササイズ集』p.68),鈴木睦「そうですね」(同p.102)など多数。

(28)  論理療法が理論的背景となっているエクササイズとしては,たとえば,鈴木由美「考えを少し変えてみよう」(『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』p.130),土屋裕睦「キーパーソンの発見」(同p.143),中里寛「みんなでリフレーミング」(『エンカウンターで学級が変わる 中学校編3』p.82)。

(29)  杉田峰康『交流分析』(1985 日本文化科学社)p.75〜80

(30)  エゴグラムを使ったエクササイズとしては,たとえば,橋元慶男「気づきのワーク」(『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』p.76),吉澤克彦が保護者会用にアレンジした「親のエゴグラム」(『エンカウンターで学校が変わる 中学校編』p.150),飯塚敬二のショート・バージョン「エゴグラムで自分を知ろう」(『エンカウンターで学級が変わる ショートエクササイズ集』p.194)。

(31)  特性・因子理論を背景にしたエクササイズとして大串清の二つのエクササイズ「私の親しみやすさは?」(『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』p.100),「日常行動を通して得意分野を知ろう」(篠塚信・片野智治編著『実践サイコエデュケーション』1999 図書文化p.94)があげられる。

(32)  國分久子「構成的グループ・エンカウンターにおけるグループリーダーの条件」(所収『続 構成的グループ・エンカウンター』)p.63,64。『エンカウンターで学級が変わる 高等学校編』p.23

(33)  諸富祥彦「構成的グループ・エンカウンターの哲学」(所収『続 構成的グループ・エンカウンター』)p.16

(34)  『カウンセリングの理論』p.25〜29

(35)  同p.28〜29

(36) 同p.312〜313

(37)  Thomas Gordon“Parent Effectiveness Training”(1988Educational Services Corp Published),“Teacher Effectiveness Training”(1974David McKay Co Published) 。日本では『親業』,『教師学』として知られている。なお,これらの邦訳もあるが,国内のものとしては,高野利雄氏の『やさしい教師学による対応法』(2000 ほんの森出版)が日本の教育現場に合っている。

(38)  「構成的グループ・エンカウンターにおけるグループリーダーの条件」p.69〜71

(39)  片野智治「のれない子どもたちへの目」(所収 國分康孝監修『エンカウンターで学校が変わる 中学校編2』1996 図書文化) p.20

(40)  岡田弘「エンカウンターのよしあしとは」(所収『エンカウンターとは何か』)p.69

(41)  『エンカウンター』まえがき

(42)  「エンカウンターのよしあしとは」p.56,57。『エンカウンター こんなときこうする 中学校編』p.10,12