カトリック校宗教教育交流誌『そよかぜ』第68号(発行 カトリック中央協議会学校教育委員会)掲載の拙文。


勇気ある刷新を


 ローマ・カトリック教育省が発刊した『紀元二千年を迎えるカトリック学校』の中に、「数多くの生徒もその家族も、倫理的・宗教的な養成に対して強い嫌悪感を持ち、事実、カトリック学校に求められているのは修了証書であり、良く言って良い授業と就職のためのトレーニングでしかない」という行がある。この文書は、世界のカトリック学校に向けてのメッセージであり、特別に日本のカトリック学校に向けられたものではない。

 しかし、この一文を日本のカトリック学校で働く教職員が読んだとき、幸い自分が働く学校とは無関係であると読み流せる仲間はどれくらいいるのだろうか。さらにこの一文の後には、「そのような雰囲気は教える側にもやる気をなくさせ」ると、ダメ押しのような行が続いている。

 いったいなぜカトリック学校はこうなってしまったのか(もちろん全部の学校とはいえないだろうが)。

 言い訳することはいくらでもできる。生き残りをかけ迷走する受験産業に引きずり回され、建学のルーツも目的も建て前と化してしまった等々、代表的な例を出すまでもない。

 しかし、カトリック学校が危機的な状況に立たされている原因を、このように外側に求めていては、「学校が潮の流れのままに漂流を続ける」(この言葉は本誌第四十九号で高祖敏明神父様が用いたもの)現状を変えていくことはできない。

 今から十何年も前の話だが、ある教員研修会において、招かれていた講師の先生が、カトリック学校は概して評価が高いので幸いであるという話をされた。確かにその頃はまだ多くのカトリック学校で、黙っていても生徒が集まってくるという状況が続いていたので、一面―――たとえば短期的な経営戦略という面――では理解できた。
 しかし、そこで語られたカトリック学校の評価に本質的な疑念を抱いたのを憶えている。意外なことに、「一流大学への進学実績がよい」とか、「校則がよく守られており躾が行き届いている」といった類の、社会通念的な評価を指していたからだ。

 これらの評価そのものを否定するつもりはない。これらは学校として当然追求すべき課題であるからだ。
 しかし、カトリック学校はそれでは足りないし、それをもって高い評価を得ているとしたのでは設置の意味がない。カトリック学校は、入学してきた児童・生徒に、どんな価値観に基づいて、どんな目的や方法で教育をしたのかで評価されねばならない。進学実績や躾教育は結果に過ぎない。実際に行われた教育内容、すなわち、目的と方法および土台となっている価値観が福音的なものであったときにのみ、進学実績や校則遵守・躾教育はカトリック教育の実りとなり、はじめてカトリック学校の誇りとなり得る。もともとしっかりした家庭で育てられ、入学時から学力の高い生徒を一流大学に入れたからといって、その生徒の生き方に福音的な光が射し込まないのであったなら、カトリック学校としては何の実りもなかったと敗北を認めねばならない。 

 カトリック学校の使命は信者を増やすことではない。しかし、福音に基づく教育をすることこそはカトリック学校の唯一の使命である。

 人間は一人ひとりが神から愛され、祝福された存在であり、一人ひとりが個性というその人固有の課題と使命を持っている。そして、人間はみなそれらの課題や使命に応えるだけの力もまたその内に神から分け与えられて持っている。したがって、神を信頼し、その潜在的な可能性をできる限り傷つけないように、共に立って大事に育ち合っていくこと。福音に基づく教育とは、具体的にはこういうことになろう。この土台さえ働く者が一丸となって踏みしめ、固めていれば、カトリック学校は何でもできる。しかし、この土台を棚上げにしてしまうのであれば、その学校はカトリックの看板もはずさねばならない。それではカトリック教育の未来はない。

 「カトリック学校が現代の世界において教育の一つの場であるためには、その根本的な特色を強化する必要があるとの確信を持たねばならない」。今こそ「カトリック学校に勇気ある刷新が求められている」(『紀元二千年を迎えるカトリック学校』)。
(大矢正則)

そよかぜ

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